湯本文彦氏。
発掘技術も無かった明治期。
資料から、大極殿の位置を推定し、
千本丸太町上がった公園に石碑を建てた人。
その人の家が、何と相国寺の門前に。
知らないと、知らないまま過ごした事だろう。
明治28年の第四回内国博覧会。
大極殿を模したパビリオン造りにも貢献。
のちの平安神宮。
そう広くない平屋建て。
終の棲家には、ちょうど良さげ。
しかも、立地は静かなお寺の真ん前。
今となっては、車が通りぬける忙しい道の前。
隣に、宗旦狐の由来になった豆腐屋跡。
良く出来た話、豆腐屋さんが考えたのかな。(^_^;)
向かい側の同志社では、解体工事。
耐震は、京都市の歴史的建物にとって、大きな課題。